タイで博士号を取得したリサーチ・アドミニストレーターのブログ

タイで博士号を取得したリサーチ・アドミニストレーターのブログです。これから、学術研究、教育、科学技術で国際連携などの道に進んでみたいなと志す大学・大学院生へ、自分らしい博士人材キャリアの”創り方”のヒントになるネタをお届けします。

【タイで博士号 No.3_2】「えんじんきみょう」と「まんだら」

【タイで博士号No.3】シリーズでは本を読んだり、人に尋ねたりしながら考えたりしていることを現在の頭の整理と、近い将来にまた考える起点としての備忘録をまとめていきます。自分経営のための学問の足跡のようなものです。第1回目では、渋沢栄一著の「論語と算盤」からの学びについて書きました。今回は、「えんじんきみょう」と「まんだら」というタイトルをつけて書いてみたいと思います。

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「えんじんきみょう」と「まんだら」

「まんだら」という言葉はよく聞いたことはあるでしょう。いろんな描かれかたがありますが、上の写真のように、真ん中の大きめに描かれた仏さま?を中心に、周りに沢山、他の仏さま?が描かれているような絵を想像されるでしょう。優しめの仏さまの集合図だけでなく、中には、下の写真のような阿修羅を中心にしたものもあります。(実は、この写真は両方とも本日、タイ・バンコクのウィークエンドマーケットのアンティークショップで写しが売っていたので、買ってきたものです。

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「えんじんきみょう」とは? これを漢字に直すと「縁尋機妙」となります。「良い縁が、尋ねて良い縁に繋がるというのは不思議だな」ということで、ざっと説明を端折ると、両方とも「仏教」に由来するタームですね。

 

従いまして、「えんじんきみょう」と「まんだら」は周りくどくなりましたが、仏教的な哲学から学んだこと、気づいたことについてのちょっとした備忘録です。 

 

 物心ついたときから、実家には仏壇があったり、近所にお寺があったり、お地蔵さんやら観音菩薩やらを祭った寺社仏閣が身近にありました。それと同時に、実家には神様棚があったり、地元で神社で五穀豊穣のお祭りがあったりなど多様なものが混じりあっているのが自然と馴染んだ風景でしたね。祖父母や父母などから仏教とか神道とかにちなんだ、風習やら作法なんかを知らず知らず習っていたと思います。社会の教科書とかに、弥勒菩薩だとか観音菩薩だとかの写真が出て、テストに出る時ぐらいだけ、ちょっと覚えたりしていましたが、本質的なところを考えることは、恥ずかしながらつい最近までありませんでした・・。 

 

で、これを、考えるきっかけとなったのが、またまた、行きつけのバンコクの古本屋で趣味の「古本屋スキャン」で出会った一冊の本がきっかけです。(人工知能君には負けませんよ!

 

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ひろさちや著 「まんだら」のこころ

 これは、ひろさちや先生という仏教を中心とした宗教問題の啓蒙家として知られている方が執筆された、新潮文庫から出ている本です。店の一番奥の棚にありました。価格は20バーツでした。(実は、前回のタイ駐在中に「まんだら」というキーワードが頭に入っていたので、それが結びついたというところですね。後述します)

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仏教発祥の地はインドですので、「曼荼羅」とか「菩薩」とか「摩訶不思議」とか「南無阿弥陀仏」などは、もともとサンスクリット語を無理やり音訳語として漢字に当てはめたものです。そもそも、日本語でも中国語でもないので、漢字自体には意味がなく、音の語源のサンスクリット語に意味があるということに、先ず改めて認識することができました。

曼荼羅」は「曼荼」と「羅」に分解

曼荼羅:マンダラ」はサンスクリット語で「マンダ」が「本質的、神髄的」という意味で、「ラ」が「持ったもの」という意味ということです。つまり「マンダラ」で「本質を有するもの」と解説されるそうで、仏教的には「悟りをひらいたもの」ということになるようです。仏さまの集合図ということは、悟りをひらいた方の集合図を描いたものです。

「菩薩」は「菩提薩埵」の省略形

「菩薩」というのも、なるほどそうだったのか、と気づいたことを早速引用させて頂きますと、「菩薩」とはサンスクリット語の「ボーディサットブァ」の音訳語の「菩提薩埵」の省略形で、意味は「求道者」となります。悟りに向かって進んでいる人という大乗仏教の哲学的な考え方です。

 

 「曼荼羅」も「菩薩」も、ついさっき本を読みかじって知ったような私にはあまりにも高尚で、解釈を加えるのは僭越ですが、現代の一般市民の一人である自分へ落としこむと、多分、「多様でいろんなことがある社会の中で自分なりの理想や目標」に向かい、「志を持って学問をしている人」というところが「曼荼羅」と「菩薩」の活用方法としては拡大解釈できるのかなと思います。大乗仏教の哲学で好きなところは、「菩薩」って高尚な存在ではなくて、誰でも生きとし生けるものは何でもそうなんですよ、というところが肩の力が抜けていいところだと思います。

縁尋機妙と曼荼羅の縁?

 縁尋機妙という言葉と出合ったのは、博士論文の審査も終え就職先を一生懸命探していた時に、京都でのミッションへ一時帰国して、そのあとタイに戻るときの関空の本屋で見つけた安岡正篤先生の本に書いてあった一文です。タイに戻ってから、就職は文字通り綱渡りでしたが、タイで京大のプロジェクトをお手伝いしていた先生との「縁」が繋がって、タイに戻ったあとに、京大からお声をかけて頂き、ポスドクの就職が決まりました。ですので、本を買った直後に「縁尋機妙」というのを実感したのです。そして、現在に至るまで、今のリサーチ・アドミニストレーターなどで、共同研究を創発したり、または継続支援をしたりする中で、うまくいっているプロジェクトは当事者間が人間関係や、偶然の縁を大切にしているなということに気づきはじめまして、その辺を普遍的に考えてきた人はいるのかなと思い、google先生に尋ねてみましたところ、ヒットしたのが「南方曼荼羅」というものでした。これが、前回、タイに駐在していた時です。

 

南方曼荼羅

 「南方曼荼羅」とは、南方熊楠(みなかた くまぐす)という 日本の博物学者、生物学者民俗学者が、友人の土宜法龍宛てに送った書簡にあったものです。これが、のちの研究者に解釈が行われ、「南方曼荼羅」とよばれるようになりました。下の図が平凡社版全集第7巻365頁に掲載されている写真です。曼荼羅は全部で3種類あるようです。この図だけ見てはなんのこっちゃ分からないと思いますが、ご興味がある方は、google先生に「南方曼荼羅」と尋ねてみてください。

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南方熊楠先生という方は、すごい方で、粘菌研究(自然科学)と民族学研究(人文社会学の今風にいうと異分野融合研究というトランスディシプリナリー研究の第一人者といってもよい方のように思います。(我々、URAという職業人にとってもこの、トランスディシプリナリー研究をどうやって創発するか、企画するか?というのがホットな課題です)

 

この書簡の中で曼荼羅を記した意図として、南方は「今日の科学、因果は分かるが、縁が分からぬ。この縁を研究するが我々の任なり。しかして、縁は因果と因果の錯雑して生ずるものなれば、諸因果総体の一層上の因果をもとむるが我々の任なり」と記してあります。このことを、南方は、AならばB、CならばD・・という因果律と区別して、「縁起律」と定義しています。これも俗に言うと、セレンディピティとかの発想に近いものです。

 

そうなんです。プロフェッショナルな「オペレーター:作業者」、「マネージャー:管理者」とプロフェッショナルな「クリエーター:創造者」の違いは、頭の中の構造と行動の指針が「因果律」で動くのか、「縁起律」で動くのかの違いにあるんじゃないかなというように思います。で、「縁起律」の発想を持てる人は「因果律」についても理解しうると思いますので、そのバランス、比率がプロフェッショナル人材の個々の特徴というところでしょうか。

 

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私の場合、タイで博士号を取ったから現職がある、というのがどれぐらい直線的な因果律と、それを跨ぐ縁起律の所作なのか、考えてみると個人的に興味深いところです。

 

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